真田幸村と伊達政宗!戦国時代を生きた二人の関係とは?

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真田幸村(信繁)と伊達政宗と言えば、どちらも数多くの大河ドラマに登場し、

その名を知らなぬ人は、いないんじゃないかと思われる存在です。

NHkの大河ドラマでも「独眼竜」や「真田丸」などで、

二人の活躍は数多く描かれています。

真田幸村と伊達政宗の関係

真田幸村も伊達政宗も、戦上手な上に知謀も高く

今でも根強い人気を誇る、ゲーム信長の野望でも、戦闘力や知謀は高い設定に成ってます。

歴女の間でも人気が高く、

ふたりのグッツは良く売れてるそうです。

今回は、今でも高い人気を誇る、真田幸村と伊達政宗の関係を書きます。

★真田幸村と伊達政宗は同じ年??

はい。

実は二人は同じ年です。

親交があったかどうかは不明ですが、二人は大阪の陣で対戦しています。

ご存じのように、この戦いは真田幸村が徳川家康の本陣に突撃し

あわやという所まで抵抗しましたが、

史実では、健闘むなしく敗れ命を落としました。

ここで、「史実では」と付けたのは

一説には、ここで真田幸村が徳川家康の首を打ち取ったと言う

言い伝えが有るからです。

事実、大阪にも家康の墓があるそうです。

余談ですが、

そうなると、徳川家康の墓は、

「大阪」と静岡の「久能山東照宮」そして、有名な

「日光東照宮」と3つ有る事になりますね。

多分ですが、

後世の人が、真田幸村の勇敢さを惜しみ

そんな話が出たのではと思いますが。

真実は不明です。

★真田幸村は大阪の陣で伊達正宗に子供を託した!

真田幸村は、大阪の陣で意外な人物に娘の阿梅(おうめ)を託します。

その意外な人物とは、伊達正宗の家臣、「片倉重長」です。

大阪城に攻め入る、伊達正宗率いる德川方を

迎え撃つ真田幸村の兵士たちでしたが、

一進一退の激しい攻防の末、ついに後藤又兵衛が打ち取られます。

その時、後藤又兵衛を打ち取ったのが、片倉重長です。

共に軍勢を指揮し、命がけで戦った者にしかわからない直感からなのか、

幸村は、重長に一通の手紙を認めます。

次の日、家康の本陣めがけて突撃する

幸村の手紙に書いて有ったのは、

「自分の娘を保護してほしい」

という内容だったそうです。

なんと、

幸村は敵方の大名である、伊達正宗の家臣に娘を助けてほしいと願い出たのです!

名将真田幸村からの、思わぬ申し出に重長は光栄に思い、

大阪城から出てきた真田幸村の三女、阿梅を

自分の陣中で匿います。

敵方の子供を匿ったとなれば、徳川家康が不信を抱き

主君である伊達正宗にも害が及ぶと考えましたが、

結局、伊達正宗と相談し領内に連れて帰り

そこで養育する事にしたそうです。

その時、幸村の子供たちをすべて連れて帰るのですが

中には、男の子もいたそうです。

その後、徳川家から、

真田の子供を匿っているのではと疑いを掛けられますが、

重長は、真田幸村の子どもである「大八」を養子にし

片倉姓を名乗らせ、「大八は死んだ」と徳川家に報告し

幸村との約束を守ったのです。

片倉重長の男気と、それを認めた伊達正宗。

あっぱれだと思います。

そして、真田幸村の血筋は

伊達正宗のお膝元で生き続けるのです。

真田幸村と伊達政宗。

二人の武将は意外な所で関係が有るのです。

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